優秀賞受賞作品④
娘に「ありがとう」を
                          柴田 修三

私が、突然に長女の幸から「お父さん…私の中学二年の一年間は、クラスでは「いない生徒」でイジメられていたのよ。」とイジメを受けていた事を初めて打ち明けられたのは、私が四八歳、幸が二一歳の秋の日でありました。

  夕暮れ時の自宅リビングルームで二人してテレビのニュース番組を見ていた時であります。確か、東北地方のある町で起きた一人の女子高校生が、イジメで自殺をした悲しい事件の続報で、その少女の「祭衣装で踊る姿」と「美しく薄化粧をした少女の顔」の写真二枚が、画面にアップで映し出されていたのです。

  この時の私は、単純な親心で「親御さんも、娘さんの突然の自殺の死で、先立たれてしまった悲しさとイジメを受けていた無念さと悔しさが入り混じって泣くにも泣けない、とても複雑な心境だろうな。」と同情していた時に、幸は、写真の少女をじっーと見つめながら、「この子…死にたくなかったと思うわ。でも、死なないと悪魔のイジメからは逃れられなかったのよ。」と呟いた後、堰を切ったように、自分が受けていた中学二年生の一年間、イジメを受けていた学校生活でのイジメ行為を打ち明け始めたのです。

  幸は、
「お父さん…お父さんが、毎週土・日曜日は、お母さんと二人で、弟の陽平のサッカー少年団での活躍に夢中で応援をしていた時に、私は、イジメられていて身も心もヘトヘトだったの、お父さんやお母さんに心配をかけてはいけないと思う心と、いつかはお父さんやお母さんが気づいてもらえるわの思いで、ガマンをしながらリビングの明りもつけずにソファーに横になりながらお父さん達三人が帰って来るのを待っていたの。私は、クラスの中では、クラスには、「いない生徒」だったの。食事中の弁当の上に頭のフケをふりかけられたり、上履きの靴の内に画鋲を入られていたりされていたの、それでも、私は負けずに「お早よう」と朝のあいさつをしても、いつも全員が完無視するの、私の学校内での休憩場所は女子トイレの中だったの…だから、テレビの写真の女の子の悔しさ・悲しさ・淋しさ・苦しさがよく解るの。毎日の学校生活やいろいろな場所先で出合ってしまった時のひどくて怖い言葉や視線を浴びせられたり、完無視のオマケまで付けられたり、陰で面白がられたり、ウソの噂さ話を流されたり等のイジメを受け、そして、これでもか・これでもかと、心と身体に「ダメ印の×(バツ)」を押し付けられて、自ら命を絶ったのよ。きっとそうよ…。」と、一年間イジメを受けていた胸の内と写真の少女に対する思いを一気に吐露したのでした。

 私は、幸の告白に自分の全身が雷に打たれた様なショックを受け、頭の中が真っ白になりましたが自分の自殺に対する思いの愚かさに気づかされまして、改めて写真の少女の顔を思い浮べ直してみましたところ、私の耳に少女の囁き声が聞こえたのです。

  その声は明るくて、「おじさん、私ってキレイでしょ、踊りは得意で上手いの。でもねェ…今から死ぬの、死なないといけないの…さようならね。」の言葉でした。私は幸の勇気ある告白に、「ごめんなさい、お父さんとお母さんが、お前の苦しいイジメに耐えていた姿を気づかず、気づけなかったことを心から謝ります…。」と両手をついて詫びたのであります。

  幸は、写真の少女と一体化したものと思います。本心は、消し去りたい中学二年生の一年間の記憶を打ち明ける決意させたものと思いました。さらに、幸は告白を続けたのです。幸は、「本当は自殺したかった…でも、お父さんが言っていたでしょう。『親より先に死ぬ事は一番の親不孝やぞ。』と…その言葉が頭の中に残っていたの。首つりは苦しいし、電車に飛び込むのは恐くて飛び込めないし、飛び降りは、高くて足がすくんで出来ないし、その勇気も足らなかったの。」と自殺計画未遂を話したのです。

  私は、幸から自殺計画未遂話を聞かされて声を荒げてしまい「この他に、どんな目に遭わされたんや」と問い正してしまったのですが、幸は冷静になったまま「数え上げたらきりがないから、一番辛くて悲しかったのは、わざと教室内に響きわたるように大声で、私のヘアースタイルや体形をバカにしたり、カラカったりの毎日だった事。私ね…お父さん達の帰りを待つ間にソファーで横になっていたら、そのまま死んで天国に行ったら、ハッピー・ハッピー・大ハッピー。そして、空の上から、サッカーで活躍をしている陽平を応援する自分がいるのと思っていたの、でも、笑顔を作るのが辛らかった、苦しかったの…本当です。」と涙も流さずにサラっと話したのです。

 私は、そんな幸の姿に、自ら「愚かな父親」の烙印を押し付けたのでした。妻は、私以上に、女親でありながら、娘の一大事のイジメに気づけなかった・気づかなかった自分に、一時は「うつ病」にもなりました。そんな幸は、イジメを受けている人の涙の叫び声の代弁者になる事を忘れていませんでした。「お父さん、追い詰められて気力を失なってしまった人は「助けて」なんて、声を上げられないの、上げることはどうでもいいの、親に言えないの、情け無い子と思われたくないの、自殺することは、心のやすまるオアシスへの道程なの。学校・先生・周りの大人達なんて当てにも出来ない、キレイ事では解決できないし、いらないの、一人の人間を多勢の人間が鉄条網で囲んでイタブリ続けるんだから、命なんて、イジメの前では「綿毛」、オーバーじゃないよ。」と真のイジメの恐しさを話すのであります。

 そんな幸の中学生時代でしたが、高校に進学後は様相が一変しまして、三年間の高校生生活は、ブラスバンド部のトロンボーン演奏者の一人として、夏は高校野球の応援・秋は文化祭での演奏と活躍しておりました。まるで、中学二年の一年間を倍にして取り戻しておりましたが、イジメの影は忍び寄ってきていたのです。

 高校二年生の時に、中学校の同級生から同窓会の通知状が届いていたのですが、傷が癒やしきれなかった幸は不参加の返信通知状を送付した結果、二度とクラス同窓会の案内状は配達されることはありませんでした。そして、幸への二度目のイジメの影が忍び込んできたのは、成人式の日でありました。晴れ着の幸は、地元の成人式に参席すれば、元のクラスメート達の視線が「いない生徒」のままで見つめていると思う怖さから出席拒否に決め自宅で私達家族の祝福と記念写真を撮ったのでした。

 一生に一度しかない成人式に参加することなく、リビングルームのソファーに座わり鼻歌を口ずさみながら指一本一本にマニキュアを塗り続ける姿を今でも憶えております。思春期に受けたイジメは、二十歳の幸の心の奥深く生きているのです。幸が受けたイジメが、今も生きづいている証拠があります。それは、結婚した時に花嫁の道具の一つとして持っていくはずの「中学校卒業アルバム」一冊と、「中学校生活写真帳」一冊が、置き去りとなって、今だに我が家の本立ての隅に残されたままになっているのです。

 愛する幸が、夫や子供達に気づかれる事もなくイジメの後遺症と葛藤している姿に安らかであることを祈るのです。私は幸の後姿から「イジメ」は、「命と人間の心」を汚染していく言葉の放射能に思います。その除去は、人の優しさと無情の愛から生まれる安心感なのです。

 北米のインディアンの格言にあるとおり、「人は泣いて生まれる時に周りの人達に祝福され、死んでいく時に周りの人達は、悲しみで涙を流して見送る。」が、自分に授かった命です。自分の命は、自分だけの命ではない、勝手に死に急ぐ自殺は、人の願いと喜びを奪い取るのではないでしょうか、私と妻は、幸が自殺を選択しなかった事に本当にありがとうのエールを送り続けます。



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